昭和四十八十一月六日 朝の御理解
X御理解 第七十六節 「人間は人を助けることができるのはありがたいことではない           か。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。           人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けて           もらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心           得て信心せよ。」
 昨夜、壮年部会がございましたが、皆さん一人一人発表をしておられましたが、本当にそれぞれ善い信心を頂いていっておられるなあと思わして頂きましたが、中で石井喜代司さんがおかげ頂いておりました。
 こちらに参って来る道すがらに、獅子心中の虫と頂いた。丁度、自分の前を通っておる車のナンバ-が四四心中の六四とあったそうです。
 獅子心中の虫とは、皆さん御承知でしょうか。どういう事か。私もよくはしりませんけれども、喜代司さんは何か良い事のように思っておったらしく、それを発表しておりました。獅子心中の虫とはね、これはお芝居で忠臣蔵です。忠臣蔵の一力栄屋の六段目のところです。
 由良之助が放蕩の態で、一力栄屋で遊んでおるところ。元は浅野内匠頭の家来であった。吉良上野介の家来の又その家来であった。お芝居では大野九郎兵衛と申しますかね、それの腹を探りに来ておる。そこへ力弥が丁度秘密の密書を持って参ります。 その密書を読んでおります。お軽は二階から覗いております。下では縁の下では九太夫がその手紙を見ておる。あんなお芝居見たことありますでしょう。
 それは勿論、由良之助はそれを知っておるわけです。見ておる事を。そこで縁のしたで見ておる九太夫を一突きに刀で刺し殺すところがあります。
 そして打ち、打ちのめして加茂川の水雑煮にせろというところがございまずがね。 その時の科目(せりふ)の中にお前はいわゆる塩治判官、いわゆる浅野内匠頭判官殿の禄を食った。お世話になって可愛がってもらっておったお前がね、こういうその反対の事をする。お前こそ獅子心中の虫だというところがあるのです。
 喜代司さんは何かそれを良い事のような感じで、まあ受け止めたらしいけれども、獅子心中の虫とは、例えば、ならば、例えて申しますならば、合楽の教会に御縁を頂きながら、合楽の生き方に弓を引くような考え方、合楽の教会の邪魔になるような生き方、これは獅子心中の虫といえます。
 合楽の御縁を頂きながら、合楽の教えに弓を引いたり、又は合楽教会の悪口をいうたり、又は合楽教会の為にならないよう事をいったりするような人はまず、ありますまいけれども、私はそれを聞きながら、それを昼の奉仕の時に頂いておった事が、どういった意味かわからなかった。それをです、私は、ははあ、こういう事たいというて話した事でございますけども、これは俳句です。
 大壺の、肩のほこりや、冬籠もり、と頂きました。書いとった。でもこれがどういう意味かわからなかった。大壺というのは大きな壺ですね。私が壺が好きですから、いろいろ壺を頂いております。その壺の肩のところに、ほこりがたまっておると、ほこりがついていると。まだ、掃除が行き届いていないわけです。そういうところを句にしたわけでしょう。そのまま冬籠もりになって行くという。
 大変私は句にしてもよい句だと思うです。大壺の肩のほこり冬籠もりという事。
 私はどういう意味かわかりませんけれども、その喜代司さんのその話しを聞かせて頂いてです、思わせて頂いた事は、大壺というのは私と頂くですね。姓が大きい壺ですね、私の姓が大坪ですから。大坪の肩のほこりやという事は、大坪のいうなら荷になっておる。肩の荷になっておる。いうなら大坪におんぶしておる。そのまま冬籠もりということは、一生それで終わってしまうという意味なんです。
 一生親先生の肩のほこり、又は合楽教会にお邪魔になったまま、一生を終わってしまうという事。これをもう少しひどい言葉でいうて、獅子心中の虫という事になる。 此処で大変おかげ頂いて、合楽の信心を止めて、信心しとらん人なんかは、ある意味で獅子心中の虫と思うですね。
 何故かって、悪口を言いよる。それこそ神様の事を悪う言いよったり、思ったり、それこそ親先生の悪口を言いよるでしょうが。これなんかは獅子心中の虫だと思う。 喜代司さんなんかの場合でもなかなか良か信心しますけども、時々獅子心中の虫的な事を言う事があるのです。あんたどんのこと参らんでんとこういう。一生懸命参っておるのに、そして又次にこんな事を言ってました。はじめの間は五日の壮年部会だけに出て来依った。又それが最近ではあちらこちらから是非来てくれと言われるから久留米の佐田さんところへ行くようになったし、田主丸に行くようになった。いうなら、三回行くようになった。そりけ私が申しました。それこそ毎朝、朝の御祈念でも参って来て、あんたの話しを聞きたいという人に、あんたの話しをさして頂くようにならにゃいけんな。あんたが言っていくように、今度御本部参拝を、もうそれこそはじめて致しましたが、本当に神様ちゃ不思議な方じゃある。御本部参拝しとる何日間の間は、家では私がおらんでもよい。御用がちゃんと出来とったと。な、そうだろうがと私が。だから神の用を足せば氏子の用は神が足してやるといわれる位じゃから、あんたが毎日、毎日参って来ていろいろ沢山の御用が合楽でも出来できて、そしてあんたの独特のならお話しを皆聞きたいという人達に、お話しでもさして頂いて、人が助かる事の為に、一生懸命働けりゃ、一日だって二日だって三日だって理屈は同じじゃけん。それを段々広げて行かにゃいけん。
 毎月御本部に月参りしても良いじゃないか。お参りしている間は家はちゃんと出来ておかげを頂いているといのだから、又事実そうなんですから。だからそれは一遍に出来んでも、神様の為には二日間、三日間、四日間、五日間御用に使うて頂いて、神様から又氏子の用は神が足してやるとおっしゃるような働きを受ける事こそ、私は本当の信心に、いわゆる大坪の肩のほこりやではなくてね、大坪のいうなら手になり、足になりという事じゃないかと思うです。
 例えば高橋さんあたりのようだと、なら、毎朝四時にはここに出て来ておられる。 もう福岡から毎日、しかもさあ御用といえば、本当に高橋さんがおんなさらにゃ何でもわからん位に、様々御用を受け持っておられる。それでいてあれだけ大きな御商売をなさっておられる。最近のようですともう、宮崎、都城、事又、あちらにお店が出来ます。その為にももう飛行機で行ったり来たり。それでも、いよいよあちらに用件の時は泊まられますけど、出来るだけ飛行機で帰って来て朝のお参りはかかさないというような生き方をしておられる人があるかと思うと、喜代司さんのように、月に一回しか参らん。只、共励会の時に、どこどこに行くけん、神様の御用を三回する。 けどそれは、それだけちゃんとおかげを頂いてというのです。
 それなら、三十日そのまま一ケ月全部お神様の為に一生懸命、あんたはどうでん、紋付袴をつけてお話しをしてまわらんの。もう全国から喜代司さんの話しを聞きたいというて、言うて来るかもしれんばい。平田さんあたりのごとと言うて話しました。 そして自分がこちらへ来させて頂く時に頂いたのが、獅子心中の虫とう事であった それは自分も意味はよく知らなかったらしい。私も本当の事は知らんけど、芝居の科目の中で私が覚えとるから、それを知っている。それは、どういう事かというと、自分のいうならば、浅野匠頭が自分の主人でありながら、その主人というか、仇討ちをしようという同志の反対の事をしておるような、いわゆるお芝居でいう九太夫、その九太夫に由良之助が、お前こそが獅子心中の虫だというてもう、突いた奴を、又、叩き打ち、打ちのめすところがある。だから本当いうたらです、いうなら今日まで信心さして頂いて、あれだけのおかげ受けておって、そして信心を止めて本当に教会の悪口やら、なら親先生の悪口を平気で言うておる人達は、本当に打ち、打のめしたいような思い、感じですよね。
 けども、勿論そこは、お芝居じゃないですから、まあ自分の不徳として神様にお詫びして行くのでございますけれども、お互い獅子心中の虫にならんように、なら、ならんようにだけではない。只、一生信心を続けたけれども、大坪の肩のほこりやで、冬籠もりで終わってしまうような、ここでは冬籠もりですけれども、まあ一生籠もりというてもよいでしょう。
 一生大した事もなしに、大坪の肩に止まって、肩の荷になりながら一生を終わるといったような事ではいけない。
 そこで本当な信心さしてもろうて、今日の御理解でいうと、人を助けることの出来るような信心、今日はそこの人を助ける事が出来るような信心、そういう信心をせよと教えておられます。又人を助ける事が有難いとう心得て信心せよとこう教えておられます。だから人の難儀を助けるようなおかげを頂く為には、今、私が申しました、只、私がよく申しますように、【】についてくるかも、ぶらさがっとたんじゃ出来んばい。もうそれこそおんぶするなら本気でおんぶしなければ、お縋りするという事はぶらさがっとるという事じゃ出来ん。本気で打ち込んでの、信心さしてもろうて、神様の御喜び頂けるような、御用の中でも、人が助かる程しの、例えばお導きといったような、働きが出来るようになるという事が、いよいよ私は有難いことである。
 いわゆるその事が有難いと心得て信心が出来るように、おかげを頂かにゃいけん。 例えば、私方の家族なら家族がおります。子供達がお父さんあげんやっちゃるけんとにかくお父さんの、【  】な的な、例えばそんなことで、もう一生終わるとするならです、こげなつまらん、自分自身としてもつまらん話しはない。
 折角お父さんがこれだけおかげを受けて、皆も助かる程しのおかげを頂いとるのであるから、自分達は朝晩傍に居るのであるから、なら、お父さんの信心を本気で頂いて、自分達は自分達で人が助かる位の、一つ力を頂かしてもらおうという位です、願いを、意欲を持たねばいけません。家族の上に私はいつもそれを思うんです。
 只、しだごだでお父さんの信心についとるだけ、それこそ肩のほこりで止まっては一生を終わるような事であってはです相すまん事です。
 そりゃお父さんに力があれば、それでも平気でおんぶもして行きゃ、ぶらさがっとりゃ、いうならば、ひっぱっても行きましょう。それでは自分自身はつまらんでしょう。自分自身がまずは助かっておかげ頂く。なら、御信者という皆さんの場合でも同じこと。同時に私は昨日、こんな話しもしました。儲けたものでなく、儲かったものでなければ役に立たんと。儲けたものという事は、私が儲けたとこういうでしうょう 商売なら商売さして頂いて、私が儲けたと、私が頑張ったけんこれしこ儲けた。
 儲けたものでは絶対に役に立たんです。おかげで私が頑張って儲けた、お願いしたそれでは本当のお役に立ちません。儲かったものでなけれはいけません。
 儲かったという事は、お父さんから儲けさせてもらったという意味です。神様から儲けさして頂いたというのです。だからそれが生き生きとして役に立ってくるのです それで大坪の肩のほこりやという間では、いわゆる私が儲けた事になってくる。信心が段々わからせて頂いて、例えばお参りさせて頂くでもそうですよ。参ってやりよるような人がある。自分が参りよるような人がある。神様のお許しを頂いて、お参りさして頂いておる。神様がお引き寄せ下さってあるという信心者でなからねば、同じ信心者とはいえません。
 参ってあげよる。又自分が参りよる。参らせて頂いておる。なら同じお金を儲かるにしてもです、本当に徳を受けて、徳に神様が向こうからついてくるもの、それを儲かったものであるという事です。
 ほんの一寸の一字の違いですけれども、大変な違いでしょうが。儲けたものではいけんのです。儲けたものということは、自分が働いて儲けたという事です。
 儲かったもの、これは儲かったものです。お客さんが儲けさせて下さったものです 例えばね、商売でいうならば、それでそこに真に有難いというものが生まれてくる 神様のおかげ頂かなければもう家のものは、どの一物だっで神様から頂いたものぞ粗末には出来んぞという事になって、さあ、神様の御用なら人が助かる御用ならば、お役に立たせて頂かにゃという事になってくるわけです。
 私は、昨日、この事を頂きながら、壮年部会までわからなかった。ははあ、壮年部会の為に、これは下さっておったんだなあと思わしてもらった。そして、喜代司さんのお話しを聞くになってです、ははあ、このことじゃったと、こう思うた。
 喜代司さんの信心の内容に、お前の信心の内容の中に、さすが天才的なものを持っておるが、時々獅子心中の虫になりよりゃせんかと、神様が強く言うておられるような気が致しました。喜代司さんだけの事じゃありません。お互いがいよいよ獅子心中の虫であってはならない。儲けたものであってはいけない。儲かったものをもって神様の御用に立たせてもらう。人が助かる事の為に、お役に立たしてもらうというような信心を頂かねばならんと思うですね。
              どうぞ。